ご挨拶(所信)

kaigi360×256グラフィックデザイナーとして、広告代理店に就職したのは30数年前、デザインスタジオ ウッドヒルを創業してからもうすぐ20年になります。
この業界で、個人事務所としては、意外に長持ちしています。これもすべて皆さまのご支援のたまものと、心より感謝し、御礼申し上げます。ははーーーーっ!

広告会社について

私が「広告代理店」にグラフィックデザイナーとして身を置いた1980年代前半、4大マスメディアと呼ばれた新聞・雑誌・ラジオ・テレビのスペースとタイムを売買するだけの営業モデルは終わりを迎えつつある時代でした。
「広告代理店」は自らを「広告会社」と呼び、広告にマーケティングの概念を取り入れました。
マーケティングミックスとかマーケティングの4P、戦略や戦術という言葉やカタカナ用語が飛び交い、消費者から生活者へとか、AIDMA-アイドマの法則とか AIDCA-アイドカの法則などと言えば、nowなクリエイターを気取ることが出来ました。
また、CIVIBIなどが企業にとって万能薬のように作用すると信じられていました。
4大メディア以外にも、展示会や、商業施設におけるイベント、交通広告や、DM・POP、フリーペーパー・フリーマガジン、折り込み広告などプロモーションメディア広告も伸び続け、広告業界全体の売り上げは右肩上がり、「広告会社」の業務内容と扱う媒体が大きく広がっていました。

広告業界について

1993年頃のバブル崩壊後、広告費は大きく落ち込みます。その後、若干の増減はありますが、再び堅調に推移していました。
ところが広告費全体は少しずつ増加しているのに2000年をピークに4大マスメディアは減少が始まり、2009年リーマンショック後広告費全体が落ち込むのに伴い、さらに大きく落ち込みました。
その後広告費は再び増加傾向にありますが、プロモーションメディア広告の好調をよそに、4大マスメディアはここ数年テレビが微増しただけで、リーマンショック前には戻りません。総じてマスメディアの市場規模は縮小傾向にあります。代わりにインターネット広告が、4大メディアのシェアを浸食するように、伸びてきています。(経済産業省 産業動態統計調査ガベージニュース参照)
ラジオは聴取者離れ、新聞・雑誌は活字離れ、特に新聞や折り込みチラシは「押し紙」や残紙が存在するために、実配部数が不透明なうえ、アクセス解析もできないので、どのような層が広告に関心を示しているのかを把握できません。科学的なデータに基づいた戦略はとれないので次第にインターネット広告が増えているのではないでしょうか。
インターネットの普及と共に(それだけが原因ではありませんが)、「広告会社」の果たす役割も少しずつ変化してきました。
企業と顧客の間にたち、販売促進に関係した全てのやり取りをサポートするマーケティング・コミュニケーションという手法。ビジネスの問題点を明示し、それを実際に解決する施策を提供するソリューション・ビジネスという手法。「コンサルタントより一歩踏み込んだサポートサービス」が求められるようになってきました。
もはや、「広告会社」という名称では業務内容がとらえきれないのですが、変わる呼称がまだないという状態です。

デザインスタジオ ウッドヒルの仕事について

グラフィックデザインの実作業も大きく変わりました。かつては、カンプというマーカーなどで描き込んだ手書きの完成予想図を、クライアントに提示して了解を貰うと、印刷された状態を頭にイメージしながら、級数表という文字サイズを表すシートや、カラーチャート(色見本表の冊子)を片手に印刷指示書をつくっていました。

trscope-small
1980年10月15日発行 株式会社宣伝会議社刊
SPクリエイティブのためのフィニッシュド・アートハンドブック基礎編89p広告

ときには暗室にこもり、トレスコープという大きな机型カメラのような機械を使ってロゴマークを撮影したり、写真のアタリを撮ったり、写植という印画紙に焼きつけた文字を、烏口やロットリングという製図ペンを使ってケント紙に図面を引いた版下という台紙にペーパーセメントというのりを使って貼り込むという、カッターやハサミ、ピンセットが手放せない、切った貼ったの世界の住人であったりしていました。
程なくして、当時、購読していたデザインや広告関係の雑誌で、やたらMacintoshとかAdobeという言葉が目に飛び込んできます。「これは東京の方では、何かすごいことが起こり始めている。このイノベーションに乗り遅れたら、デザイナーの仕事がなくなるかも知れない、もしくは、うまくいけば仕事の幅が大きく広がるかも知れない」などど、いろいろな思いが交錯し、期待と不安が日々大きく広がっていきました。
当時、会社ではコンピュータと自分たちの仕事を結びつけては考えていませんでした。社長と話し合いましたが、まだどうなるか分からないものに投資は出来ないと言うことでした。
ついに意を決し奥さんに「パソコン買って」「は?何に使うん?」「デザインに。」「何が出来るん?」「何でも出来るんよ。」「何でもじゃ分からん。」本当は何が出来るかよく分かっていないのに、勢いだけでお取り寄せで150万円くらいの買い物をしてしまいました。ソフトも当時この辺では売っていなくて、大阪まで買いに行くことになるとも知らずに。
1992年頃イラストレーターがversion3、フォトショップがversion2の時代でした。MacOSが漢字TalkやSystem7と呼ばれた時代です。
仕事が終わった後、自宅で深夜までマニュアル片手に悪戦苦闘の連続でした。理解できない自分は頭が悪いのかと毎日落ち込んでいました。
数年経つと、仕事を劇的に変化させる道具が目の前にあるのに、会社では旧態依然とした作業を続けていくのに苦痛を感じていました。やがて、何のあてもないのにただMacintoshを使って仕事がしたいという思いだけで、取締役をやっていた会社を辞めてしまいました。1995年末のことです。
それでも、AppleTalkやSCSIで複数台の機器やプリンター、スキャナーがパソコンに接続でき、電算写植の外注や暗室作業、版下作業から、開放されることはデザインの未来が洋々と広がっていく感覚でした。ソフトやハードを次々に買い換え、気がつくとおベンツSクラスが軽く買えるくらい投資していました。
インターネットはアクセスポイントが福岡にしかなく、モデムを使いマニュアルを見ながら、呪文のようなコマンドを間違えながら何度も入力し、気が遠くなるほど遅い回線と、ため息の出る高い電話料金で繋がっていました。画面表示はモザイクというブラウザしかありませんでした。日本語のページは殆どなかったので、英語の読めない自分はがっかりしました。パソコン通信はニフティサーブやPC-VANといった文字データをやり取りするほうが主流でした。
気がつくと、デザイナーの仕事に、電算写植の仕事、カメラマンの仕事、版下の仕事、製版の仕事、が上乗せされていました。5人分の役割なので報酬も5倍なのかというと、それぞれの専門知識も要求され、忙しくなっているのに、料金は一人分。さらにコピーライトの仕事、マーケターの仕事までカバーするという器用ど貧乏になっていました。
扱うソフトの数やジャンルも増え、大学校や職業訓練校でプレゼンや3Dを教え、専門学校でDTPやWEB、デザイン概論を教え、もはや何をやっているのか分からない状態。
で、考えました。どうせ儲けは薄いのだから、これからは好きな仕事だけを趣味のように一所懸命やっていこう。楽しいこと、誠実であること、無意識であっても広告で、自分や他人を欺さないことを基本にね。